ペリー来航

igoten

2016年07月15日 10:12


毎年7月に神奈川県横須賀市久里浜で「久里浜ペリー祭」
が行われる。

ペリーが最初に来航したのは1853年のことである。
ペリーはアメリカ合衆国東インド艦隊司令長官遣日特使と
してアメリカ大統領フィルモアの書翰を携えていた。
当時の「東インド」と言うのは東洋をさした。

「太平の眠りを覚ます上喜撰たった4杯で夜も眠れず」
と言う有名な狂歌が有る。
宇治の高級茶「喜撰」の上等なものを「上喜撰」と言ったが、
蒸気船と上喜撰をかけた秀逸な狂歌である。
ただし、浦賀に来航したのは旗艦のサスケハナ、ミシシッピ、サラトガ、
プリマスの4隻でその内蒸気船はサスケハナとミシイッピだけで、
他の2隻は帆船である。
ちなみに軍艦にはアメリカの川の名前がついていた。

蒸気船と言うからには洋上も蒸気で航行したように思えるのだが、
この蒸気船は帆が有り、通常の航海の時は帆で航行していた。
蒸気で航行するのは湾内などの限られた時や場所である。
これらの船は「黒船」と呼ばれていた為、鉄で出来た鉄甲船のように
思えるのだが実は木造船で腐食防止のため黒いタールを塗ってた。
しかしその大きさは半端ではない、当時日本では大きな船の建造は
禁止されていたので、最大でも200トンを超える舟は無かったのだが、
サスケハナ号はなんと2450トンもあった。

さて江戸幕府の対応であるが、この対応に当たったのが、
たかだか石高100石クラスの与力中島三郎助である。
江戸時代のちょっと大きな田舎の庄屋でも石高100石くらいは
有ったのだから、この与力は石原新太郎に言わせれば木端役人である。
しかしこの木端役人はすごい、番船で真っ直ぐ旗艦のサスケハナに
漕ぎ寄せて、「オランダの通詞はいますか」と言うのである。
むろん中島与力はオランダ通詞を連れている。
幕府はあらかじ準備していたのだ。
巨大な軍艦で日本を驚かしてやろうと来航したペリーであるが、最初に
面食らったのはペリーの方かも知れない。

ペリーのオランダ通詞は「この船は北アメリカ合衆国の船であり、
大統領から将軍に宛てた書簡を持っており、奉行で無ければ交渉しない」
と言う。
しかし与力も負けてはいない、「日本の国法では奉行が、異国船に応接
することは無い、国には国の法律が有りその法を犯すことは
出来ない」と近代国際法にのっとって反撃する。
しかもこの与力只者ではない、自分は副奉行であると偽ってサスケハナ号
に乗り込み、去り際に艦上の巨砲を見て「これはパクサンズ砲ではないか、
して射程距離は」と尋ねて煙にまく。
むろん彼はパクサンズ砲の射程距離を知っていたのであろう。

パクサンズ砲の射程距離は約6km、江戸城は海岸からわずか3kmしかない。
戦闘になれば江戸は時を待たずに壊滅的なダメージを蒙ることになる。
4隻の黒船の前に江戸幕府と言うよりも日本は、風前の灯であった。


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