イータ!
「ねえマイクちょっと私の部屋に来てくれない」
妻のキャサリンは研究室の半分開いた扉から顔を出してそう言うと、再び
扉を閉めて行ってしまった。
私はちょうど来月に学会誌に発表する予定の遺伝子に関する
少し複雑な計算をしている途中であった。
いつもなら「ちょっと待ってくれ」というところだが、キャサリンの声が
普段と違って少し興奮しているように思えたので、やりかけの計算式を
そのままにして立ち上がった。
キャサリンの研究室は私の研究室の斜(はす)向かいにあって、
間取りはほとんど私の部屋と同じであった。
私は扉を軽くノックをしたが、彼女の返事を待たずにそれを開けて中に入った。
彼女はすでにパソコンの前に座りモニターの画面を食い入るように見ている。
「マイクこの数式を見て頂戴」
私が近付くとキャサリンはそう言ってモニターの載せてあるデスクから少し身をひいて、
近くにあったもう一つのイスを引き寄せると、自分の椅子の横に並べて、
私に座るように言った。
彼女の声にはどこか興奮を無理やり抑え込んだような不自然さがあった。
出された椅子に腰をかけると、私はモニターに映し出された複雑な数式を見た。
それは明らかに遺伝子がある状態から異なる状態に変化することを表した数式であった。
私はしばらく画面に描かれた数式を眼で追っていたが、
その数式の中に書かれているある記号の役割がどうしても理解できなかった。
「このη(イータ)っていったい何だい?」
私はキャサリンに訊ねた。
「ηは外力なの」キャサリンは答えた。
その声には何かとてつもない重大な発表をするような響きがあった。
「外力か、しかしこれは...」私は言い淀んだ。
「マイク、私は何度も確かめたのよ、何度も。
しかもこの数式はあなたが何年もかけて集めてくれたデーターから導き出したものよ
貴方の教えてくれた方法で」
私はひどく混乱していた、そして言おうか言うまいか少し考えていたが、
やがて吐き出すように言った。
「そうすると君はこの地球上の全の生物が何らかの見えない
数式に従って発展して来たと言うのかい」
「そうなるわねマイク、私もはじめは信じられなかったわ、でもよく調べてみると
生物の進化の過程で、どうしても理解のできない遺伝子の変化が起きているの。
それは生物の長い進化の過程の重要な分岐点で必ず現れるているわ。
私も色々な可能性を考えたの、でもなぜそうなるのか皆目見当がつかなかったの」
キャサリンはそこで一息入れると続けた。
「そしてそれらのことは、ある外力を想定して式を立てると、すべて合理的に
説明が付くことに気がついたの」
キャサリンの声は明らかに興奮していた。
「これがその数式なのか、そのことに関しては僕も少しは感じていたさ、
人間の進化が単にランダムに発展したのではないのではないかと....
そうすると君はこのηが神だって言うのかい」
私はまるで自分自身に質問するかのように訊ねた。
「わからないわマイク、でも私はそうじゃないと思うの、もしηが神だとしたら、
故意に戦争を起こしたりして罪もない人々を数えきれない程殺すかしら」
「じゃあこのηはいったい何なんだい」
「それはさっき言ったように私にもわからないの、でも何かとてつもない大きな力がこの世の中の全ての
事象をプログラムして、動かしているのよ。
たぶんこれからの私の仕事はこのηを探すことになるのでしょうね。
そのうちきっと答えを見つけるわ」
私はキャサリンの顔とモニターの画面を交互に見ながら考えていた。
もしキャサリンの言うようにηが存在してそれが何か判明したとしたら、
人類はいったいどうなってしまうのか。
しかも既にそれすらプログラムされているというのか。
「マイク、今日はもう仕事は止めて早めに家に帰らないこと、もしかしたら
私たちの研究も根本から見直す必要があるかもしれないわ」
私の取りとめのない思考は、キャサリンの声で中断された。
しばらくして私とキャサリンは何重ものセキュリティチェックを経て、
中央総合遺伝子研究所の通用門を出ると、郊外の自宅に向かって車を走らせた。
途中我々はテイクアウト専門の中華料理屋で夕飯を仕込んだ。
「マイク、ジョンんはもう学校から帰ってきているかしら、最近なんだか
勉強に身が入っていないように見えるんだけど」
助手席に座ったキャサリンはテイクアウトの中華料理の紙のバッグを
少し傾けながら言った。
「そうだな僕の方からすこし注意をしておくよ」
先ほどのことが気になって殆ど上の空で私はそう応えた。
自宅の玄関のドアを開けて家の中に入ると居間の方から明かりがもれてる。
私とキャサリンが居間に入って行くと、息子のジョンがテレビの前に座って
一人でゲームをしていた。
「ジョン帰っていたのかい、宿題は済んだだろうね」
私はジョンに尋ねた。
「うん、パパ宿題は帰ってきてすぐにやっちゃったよ」
「ゲームばっかりしていちゃ駄目だぞ、もうすぐ夕御飯に
なるからゲームを止めにして手を洗ってきなさい」
「わかったよパパ、でもちょっとこれを見てくれない、
このゲーム新しく出たばっかりなんだけどすごく面白いんだ、
昔『シムシティ』というゲームがあったでしょ、都市が発展したり
滅びたりするやつ、このゲームはそれに似てるんだけど、細かな
設定をすると人間や生物が進化したり滅亡したりするんだ。
とっても複雑で信じられないほど面白んだ」
「面白そうだね、だけどジョンもうすぐ夕食だからゲームを止めにして
手を洗って来なさい」
そう言って私は横にいる妻のキャサリンの方を見た。
キャサリンンはまるで亡霊にでも会ったような蒼白な顔をして
ゲームが映し出されているテレビ画面を凍りついたように視ていた。
開け広げられた窓のカーテンが僅かに揺れて、じっとりとまとわりつくような
部屋の空気が少し動いた。
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