ガラ紡機とは

(現存するガラ紡機)
ガラ紡機とは
ガラ紡機は、臥雲辰致により明治時代に考案された紡績機でそのガラガラという騒音から、ガラ紡と呼ばれた。
紡績とは主に綿や羊毛、麻などの短繊維を非常に長い糸にする工程を言い、特に綿を使った紡績のことを綿紡績と言い、出来上がった糸を綿糸と言う。
間違いやすいので書いておくが、長繊維の絹を蚕の繭から繰り出し、ばらばらにならないよう数本まとめて撚る工程を製糸と呼ぶ。
(注1)化学繊維を作ることを紡糸と言う。
ガラ紡機が果たした歴史的な役割
臥雲辰致と言う名前は知らなくても、江戸末期から明治の初期にかけて欧米と結んだ不平等条約により、金などの貴重な日本の財産が海外に流出したことを知っている人は多いだろう。
江戸幕府が、1858年アメリカと結んだ日米修好通商条約の一般品の課税率は20%で、当時としては極めてリーゾナブル(適当)な税額であり、これに関しては不平等とは言えなかったが、 文久3年(1863年)5月、長州攘夷派の久坂玄瑞らがアメリカ商船ペンブローク号を馬韓海峡で砲撃する。
これに対して、アメリカ、フランスは圧倒的な火力を以て、長州に報復し、長州は手痛い打撃をこうむる。
戦闘で惨敗を喫した長州藩は講和使節の使者に高杉晋作を任じたという話は有名な話で、一度は聞いたことがある人は多い。
結局、この戦争の賠償は江戸幕府が行うことになるのだが、その額が高額で幕府でも支払いきれない。
その結果が、輸入関税の実質的な引き下げである。
それまで、輸入関税は、輸入品価格の35%ないし5%をかける従価税方式であった関税が、4年間の物価平均で定まる原価の一律5%を基準とする従量税方式に改められた。(「改税約書」1866年6月25日)
これは当時の物価上昇を考慮に入れると、ほぼ無税に近いものであった。
これにより、100年余り先行して産業革命が始まったイギリスから安価な綿糸、綿織物が大量に輸入され、我が国在来の手工業的な綿業は壊滅的な打撃を蒙るのである。
大正14年の東洋経済新報社「大日本外国貿易五十六年対照表」によると日本の貿易収支は、明治初年度は輸出総額が1,553万円に対し輸入総額1,069万円で483万円の黒字で有ったが、翌明治2年は輸出総額1,291万円、輸入総額2,078万円となり787万円の赤字に転落する。
その後の貿易収支は明治9年に若干の黒字を記録するが、明治14年まで赤字体制が続くのである。
明治初年度の総輸入額は1,064万円であるが、輸入金額は十年後には2.7倍に膨れ上がり、総輸入額に対する綿製品の輸入比率は36%余りであった。
この貿易収支の赤字を放置すれば、やがて日本は独立国家としての存続の危機に瀕することは明白であった。
治政府は輸入防遏(ぼうあつ)・殖産興業の展開をもってこれに対抗し2,000錘紡績機を輸入して、官営の愛知紡績所と広島紡績所を建設し、紡績工業の育成を目指した。
一方で、政府は起業公債基金で2,000錘紡績機10基を輸入し、民間に無利息10年賦で払い下げた。
また政府の輸入代金の立替払いという保護で、紡績所が設立され、これらの2,000錘紡績機を基本とする模範勧奨工場が、明治10年代の殖産興業の中心となるのである。
しかし政府のもくろみは、2,000錘の規模の小ささ、経営・技術上の未熟と、水力の不安定性、国産原料綿の不適性、立地条件の不利などの原因により失敗に終わる。
(飛び杼)
しかしここに救世主が現れる、それは飛杼(とびひ)である。
飛杼はイギリス人ジョン・ケイによって発明されイギリスの産業革命のきっかけになった発明ともいわれる。
飛び杼は日本に明治6年、フランスに留学していた京都・西陣の織工、佐倉常七によってもたらされた。
この飛杼により手織り織機の作業能率は3倍以上になり、問屋制家内工業での綿織物業は生産性が向上し、国内の殆ど壊滅状態だった、綿織物業の回復を見る。
そして国内綿産業の回復により、更なる安価な国産の原料綿糸の生産が望まれるようになる。
そんな時、まるで彗星のよう、ガラ紡機が出現する。
ガラ紡機は西洋方式とは全く異なる方式で、安価な原料綿糸の生産を可能にし、短時間のうちに全国に広がっていく。
村瀬正章はその著書「臥雲辰致」の中で次のように書いている。
「明治九年当時我が国の様式紡績機は、紡錘六千、織機百台、ただこれだけであったが、この時に構造軽易・操作簡便な臥雲機の出現は、まさに干天に雲霧を望むようなものであり、たちまちにして全国に普及し、わが国綿業史上に果たした役割は極めて高く評価されるべきものである。」
すなわち明治政府が行った「官制模範工場」の政策が失敗する間に、全国に造られたガラ紡機を使った紡績工場は、安価な和紡糸を供給し増加する輸入紡糸の防遏の一助となる。
明治15年、渋沢栄一らの主唱で、大阪に近代的設備を備えた大阪紡績会社(現・東洋紡)が設立され、蒸気機関による本格的な綿糸の機械制生産が始まると、これが刺激となり、明治19年から明治25年にかけて、三重紡績、天満紡績鐘淵紡績、倉敷紡績、摂津紡績、尼崎紡績など20に及ぶ紡績会社が次々と設立され、それに押されガラ紡は衰退するが、大阪は「東洋のマンチェスター」とよばれるようになり、明治23年に国内綿糸生産高が綿糸輸入高を上回り、その後、日本は世界最大の紡績大国に成長し、綿糸紡績業は日本の主要な輸出産業となった。
最終的には品質コストがまさる西欧の紡織機に取って変わられることになるのであるが、明治時代の日本にとって一番大切な時期に、ガラ紡機が果たした役割は極めて大きといえる。
「臥雲辰致の研究」
2018年09月17日 Posted by igoten at 09:27 │Comments(0) │臥雲辰致とガラ紡機
「臥雲辰致の研究」

(臥雲辰致)

(明治10年代第一回内国勧業博覧会で鳳紋賞牌-最高の賞を授与された”ガラ紡機”)
明治の初めに、西洋の技術によらない紡績機(綿から糸を作る機械)を発明した
天才発明家、臥雲辰致について下のホームページに記載しています。
興味のある方はご覧ください。
「臥雲辰致の研究」