岡本 かの子(著)
「BOOK」データベースより
 鮨店「福ずし」の娘ともよがほのかに好意を寄せる、常連客の初老の男、湊。 彼から聞く、没落していく旧家に生まれた湊の幼いころの鮨、そして母の思い出を、 陰翳豊かに描いた岡本かの子の名編。


岡本かの子は、あの太陽の塔の岡本太郎の母である。
「鮨」は短編である。
まずその一節を読んでいただきたい。
神経質でほとんど何も食べない息子に万策尽きた母親が
自分で鮨を握って食べさせるくだりである。

「よくご覧、使う道具は、みんな新しいものだよ。それから拵(こしら)える人は、おまえさんの母さんだよ。手はこんなにもよくきれいに洗ってあるよ。判ったかい。判ったら、さ、そこで――」
 母親は、鉢の中で炊きさました飯に酢を混ぜた。母親も子供もこんこん噎(む)せた。それから母親はその鉢を傍に寄せて、中からいくらかの飯の分量を掴み出して、両手で小さく長方形に握った。
 蠅帳の中には、すでに鮨の具(ぐ)が調理されてあった。母親は素早くその中からひときれを取出してそれからちょっと押えて、長方形に握った飯の上へ載せた。子供の前の膳の上の皿へ置いた。玉子焼鮨だった。
「ほら、鮨だよ、おすしだよ。手々で、じかに掴(つか)んで喰べても好いのだよ」
 子供は、その通りにした。はだかの肌をするする撫(な)でられるようなころ合いの酸味に、飯と、玉子のあまみがほろほろに交ったあじわいが丁度舌一ぱいに乗った具合――それをひとつ喰べて仕舞うと体を母に拠りつけたいほど、おいしさと、親しさが、ぬくめた香湯のように子供の身うちに湧いた。
 子供はおいしいと云うのが、きまり悪いので、ただ、にいっと笑って、母の顔を見上げた。
「そら、もひとつ、いいかね」
 母親は、また手品師のように、手をうら返しにして見せた後、飯を握り、蠅帳から具の一片(ひとき)れを取りだして押しつけ、子供の皿に置いた。
 子供は今度は握った飯の上に乗った白く長方形の切片を気味悪く覗いた。すると母親は怖くない程度の威丈高になって
「何でもありません、白い玉子焼だと思って喰べればいいんです」
 といった。
 かくて、子供は、烏賊(いか)というものを生れて始めて喰べた。象牙(ぞうげ)のような滑らかさがあって、生餅より、よっぽど歯切れがよかった。子供は烏賊鮨を喰べていたその冒険のさなか、詰めていた息のようなものを、はっ、として顔の力みを解いた。うまかったことは、笑い顔でしか現わさなかった。
 母親は、こんどは、飯の上に、白い透きとおる切片をつけて出した。子供は、それを取って口へ持って行くときに、脅かされるにおいに掠(かす)められたが、鼻を詰らせて、思い切って口の中へ入れた。
 白く透き通る切片は、咀嚼(そしゃく)のために、上品なうま味に衝(つ)きくずされ、程よい滋味の圧感に混って、子供の細い咽喉へ通って行った。
「今のは、たしかに、ほんとうの魚に違いない。自分は、魚が喰べられたのだ――」
 そう気づくと、子供は、はじめて、生きているものを噛み殺したような征服と新鮮を感じ、あたりを広く見廻したい歓びを感じた。むずむずする両方の脇腹を、同じような歓びで、じっとしていられない手の指で掴み掻いた。
「ひ ひ ひ ひ ひ」
 無暗(むやみ)に疳高(かんだか)に子供は笑った。母親は、勝利は自分のものだと見てとると、指についた飯粒を、ひとつひとつ払い落したりしてから、わざと落ちついて蠅帳のなかを子供に見せぬよう覗いて云った。
「さあ、こんどは、何にしようかね……はてね……まだあるかしらん……」
 子供は焦立(いらだ)って絶叫する。
「すし! すし」
 母親は、嬉しいのをぐっと堪える少し呆けたような――それは子供が、母としては一ばん好きな表情で、生涯忘れ得ない美しい顔をして
「では、お客さまのお好みによりまして、次を差上げまあす」

まるで私がこの親子の横にいて、その情景を見ているかの
ような錯覚に陥る。
まさに珠玉の一節である。
  


2009年05月04日 Posted by igoten at 18:17Comments(0)読書