とろける羊

その昔、時の首相田中角栄が日中友好条約を結んでから
まだ3年位しか経っていない時のことである。
会社の仕事で同僚と2人で中国の北京に行く機会があった。
当時中国はまだ日本人だけで訪問することは難しく、
この時は香港の代理店の技術者ケンが我々にアテンドした。
その頃の北京にはまだ日本人観光客は殆どおらず、
ちらほら欧米人がいるのみであった。
更に北京の街にはタクシーがほとんどなく、ホテルから外に
出るのがかなり大変であった。
「今日は北京飯店に美味しいものを食べに行きましょう。」
ケンが言った。
北京飯店は有名なホテル兼レストランである。
北京と言えば『北京ダック』しか知らない当時の私は
北京ダックを食べに行くとばかり思っていた。
ホテルの前でなかなか来ないタクシーを待って、北京飯店
に着いたのは夜の7時頃、北京飯店のレストランは、
体育館を少し狭くした位の広さで、テーブルが
20~30席位あり、飾り気が無く、暗くてがらんとしていた。
当時の中国では働く人は全て国家公務員、レストランでも
お店でも全く顧客サービスというものは無かった。
むしろ売る側が威張っていた時代である。
予約してあったとみえ、我々は直ぐにテーブルに案内された。
「今日は羊の肉を食べます」案内係のケンが言った。
「羊か.....」私は軽い失望感を覚えた、羊はイスラム圏では
良く食べられる、と言うよりイスラム圏に行くと肉と言えば、
羊か鶏であった。
今まで色々な所で羊の肉を食べたが、羊の肉の料理で
旨いものに出会ったためしはなかった。
強いて旨かったと言えば信州新町で食べたジンギスカン
位のものである。
さて料理の準備が始められ、テーブルの真ん中に、
鍋に煙突が付いた、しゃぶしゃぶ鍋が据え付けられ、
肉が運ばれて来た。
肉は薄くスライスした肉を直径3cm位にくるりと巻いて、
それを重ねてあった。
もちろん白菜などの野菜も運ばれてきた。

「このようにして食べます」ケンが言って、2~3切れの
肉を箸で取り、グラグラ煮えた鍋の中のお湯でさっと
洗って、いくつかの皿に取り分けられたたれの一つに
入れ食べて見せた。
それは全く日本のしゃぶしゃぶと同じ食べ方であった。
ちょうど腹が空いて来る時間で有ったので、我々も
ケンにならって、くるりと巻いてある肉を2つ程掴んで
鍋の中に入れ、たれに付けて口に入れた。
そして一口食べた瞬間に我々は日本から遠く離れた
北京の地で新しい味に出会ったことに気が付いた。
くるりと捲かれた肉は、上質のラム肉でそれを
冷凍して薄く切ったものであった。
冷凍されて封印されたラム肉の風味は、熱い湯の中で
一気に封印が解かれ、かすかで上品な羊の香を
放つとともにお湯の中にたっぷり入れられた、
干物の貝柱のほの甘い味が湯を通して静かに
染み込んでいた。
肉はあくまでも柔らかく、程よく乗った淡白な脂が、
舌の上で心地良く溶けた。
我々はまるで何年もろくな食事にありついたことが
無い人のごとく、しゃべることも忘れ、次々と皿に乗せられて、
運ばれて来るラム肉をむさぼるように食べた。
格闘1時間余り、体を前に曲げておじぎが出来ないくらい
たらふく食べた我々はふくれた腹を前に突き出して、
天井を見つめしばらくの間呆(ほう)けていた。
そしてこれがかの有名な
『シュワンヤンロウ(刷羊肉)』
で有ることを知った。