ノーベル文学賞

今年もまた村上春樹はノーベル文学賞をのがした。
何かこれはノーベル賞に関する毎年の行事になっているようだ。
ところで、日本語で書かれた小説が本当に外国人に理解できるんでしょうかね。
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」は有名な川端康成の
「雪国」の冒頭なんだけど、この一説を読んで我々が感じるイメージを、
他の国の人が共有できるとは、とても思えないのだ。
何故なら我々が『雪国』と言う言葉から受ける漠然としたイメージは、
我々が子供の頃から培った知識の総合が醸(かも)し出すものであって、同じ感情を
スエーデンやノルウェーの人に求めるのは無理があるからである。
彼らが持つ雪国のイメージは日本人のそれとはまったく異なるものである。
つまり、川端康成が受けたノーベル文学賞は、もしかしたら作家本人が
意図した物とは全く違うものに対して、授与されたものかも知れないのだ。
欧米の読者は、日本人作家の本を読むとき、先ずその本を『日本』と言う
イメージで包み(ラップし)、その中で本のイメージを広げるのである。
日本人の読者は日本人の作家の本を『日本』と言うイメージでラップしたりしない。
その過程が決定的に異なるのである。
さて村上春樹の場合はもっと複雑である。
『村上春樹さんの『風の歌を聴け』は現代アメリカ小説の強い影響の下に
出来上がったものです。
カート・ヴォガネットとか、ブローティガンとか、
そのへんの作風を非常に熱心に学んでいる。
その勉強ぶりは大変なもので、よほどの才能の持ち主でなければ
これだけ学び取ることはできません。
昔ふうのリアリズム小説から抜け出そうとして抜け出せないのは、
今の日本の小説の一般的な傾向ですが、たとえ外国のお手本があるとはいえ、
これだけ自在にそして巧妙にリアリズムから離れたのは、
注目すべき成果と言っていいでしょう。』
これは村上春樹の処女作品である『風の歌を聴け』が群像新人文学賞を
受賞した時に選考委員だった丸谷才一の批評である。
村上春樹は小説家と言うだけではなくアメリカ文学の翻訳者でもある。
ノーベル文学賞の選考委員は勿論日本人では無く、日本語を読めないわけで、
村上春樹の小説なども自国語に訳されたものを読む訳である。
もしかしたら英訳された本かも知れない。
特に北欧の人は英語が得意であるから。
たぶん、外国人、とりわけ欧米人は日本の小説に日本の文化の香りを
求めるだろう、まあ意識的か無意識かは別として。
アメリカナイズされた村上春樹の小説は、おそらく日本の文化の匂いは
少ないであろう。
このことはノーベル賞の受賞には不利なのか、はたまた有利なのか。
村上春樹の未発表の英訳された小説を、翻訳者の柴田元幸あたりが、
日本語に翻訳したものを、原本と比べながら、読むと面白いかもしれないと思うのだ。
そうすれば、翻訳とは何かということが少しわかる気がする。
いずれにしろノーベル文学賞と言うのは、無理が有りますね。
ノーベル平和賞も無理が有るけど。
追記:なんか文章がバラバラですが、このままUPします。
とても忙しいので...